起 源
甘木での祇園踊り・盆踊りの起源は、鎌倉末期の頃、祇園社の開山式に奉納された”風流(ふりゅう)”からとされている。実に、今から698年前のことである。
元禄12年(1699)、庄屋町の原喜左ヱ門が子供に踊りを教え祇園社に奉納し町々を巡演すると、これが他町に普及していった。この踊りは初めは風流・舞・操り・神楽等であったのが次第に歌舞伎に転向していくことになる。
この祇園踊りが歌舞伎に固定化してくると郷土人の好みに合い、全町挙げて熱演するようになった。天明4年(1784)、祇園踊りの黄金期であった頃に更に盆踊りが出現した。
天明4年、九代霊乗
昨年より盆十四・五日より廿日(はつか)夜まで毎夜、にはか※2出来せり。思ひ付次第に芸するものあり、歌舞するものあり、或はものまねするものもあり。三十町中をあるき、夜半に至る。
乗、為以(おもえらく)、これより当来には、祇園踊りの如くなるべきか。
光照寺過去帳にあるように、霊乗の予見通り年々祇園と盆の両方に歌舞伎が施行されるようになった。やがて、「山笠の豪華」と「歌舞伎の絢爛」が相まって郷土民芸として熱演され愛着を持たれていく。
芸能文化への高まり
天保5年~6年(1834~1844)、七代目市川團十郎※3の大一座が来演、10日間超満員の盛況を呈した。團十郎は梅西舎塾※4の佐野東庵※5に
未だかつて、この土地のような熱烈な観客の眼に出会ったことはない。
自分が最も苦心した芸の勘どころで拍手を送る観客の優れた鑑賞眼には驚いた。
と感嘆したという。
明治6年の百姓一揆が元で公演が中止に、明治8年に盆踊りのみ復活したが秋月騒動※6・西南戦争などで再び中止に追い込まれる。明治12年(1879)にようやく復興し、明治の子供歌舞伎は盛況となった。
明治31年(1898)、学校からの学生の出演差し止めで少年に代わり青年が出演となり、甘木盆俄は「若手」が演じ、「当世(とうよ)」が世話役、「中年」が実権を握り、甘木十八ヶ町が町を挙げての仕組みへとなる。明治末期から大正昭和初期にかけて黄金期となり、庶民の芸能文化への想いに重みが増していくことになった。
戦時中
昭和12年(1937)、日支事変により公演を中止。
戦後の昭和23年(1948)、十二ヶ町で舞台が建ち復興、興行の内9組が歌舞伎を披露した。25年(1950)から十ヶ町が本来の仕組みへと立ち返ったが10年間の戦争での空白、諸道具の散逸など、復興への熱意は強かったものの、時代相の変遷と経費不足もありついに昭和29年(1954)で絶えてしまう。
復興へ向けて、そして今
昭和34年(1959)、同好の士が集い4舞台で巡演した際、これを佐々木滋寛※7が観劇、KBC九州朝日放送の録画・放映へとつながり注目を浴びることになる。
昭和38年(1963)には復活論が再燃し、名士・愛好者・婦人会が集い再度4舞台で巡演した。しかし、38年~40年の3回公演で途絶えてしまう。
昭和56年(1981)、甘木連合文化会の呼びかけで保存会が発足、懐かしい甘木盆俄(歌舞伎)が16年ぶりに復活し第1回の保存公演を開催、今に続いている。(2017年九州北部豪雨のためその年は中止した)
平成2年(1990)2月2日、朝倉市(当時甘木市)無形民俗文化財※8の指定を受け、名実ともに甘木郷土の伝統芸能となったのである。
右から静御前:具嶋スギコ(7)
忠 信:藤井秀嘉(7)
藤 太:大久保忠(7)